【スリー・ビルボード】憎しみの連鎖と拡散、その先にあるものは・・・
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タイトル:スリー・ビルボード
ジャンル:ドラマ / クライム
日本公開:2018年
製作国 :アメリカ / イギリス
監督  :マーティン・マクドナー
出演  :フランシス・マクドーマンド / ウディ・ハレルソン / サム・ロックウェル

 

 

あらすじ
アメリカ、ミズーリの片田舎に3つの大きな看板が建つ。
その看板は数カ月前に最愛の娘を殺された母親・ミルドレッドが設置したものだった。
その看板に書かれた内容は事件の捜査が進展しない事に対する地元警察署長への抗議文。
しかし、ミルドレッドとそれを快く思わない人たちとの間に対立が生まれ、静かだった田舎町に不穏な空気が流れ始める・・・。
というお話し。
メタ壱スコア 3.7

数々の賞を受賞し、2018年2月に日本でも公開された本作。
日本国内でも評論家や観客にも高く評価されました。
最近、ハリウッドを中心に様々な視点や形で差別や分断をテーマにした作品が数多く作られています。
「グレイテストショーマン」では素晴らしい歌と音楽によって前向きな形で。
「ゲット・アウト」では皮肉をもったホラーとして。
本作「スリー・ビルボード」でもそういったテーマが実に力強く燃える炎のような荒々しさと熱量によって描かれています。

この作品、はっきり言ってキツイ映画です。
観ている人間の精神を強く揺さぶります。
この映画では感情の連鎖がテーマとして描かれていますが、その連鎖は作中の人物だけにとどまらず観ている人間の心にまで波及してくるのです。

 

©2017 Twentieth Century Fox Film Corporation.

物語りは、主人公のミルドレッドが、殺された娘の捜査の進展のなさに業を煮やし、警察を挑発するような文言を載せた3つの看板を建てた事から始まります。
真っ赤なその看板は母親ミルドレッドの怒りを表しているかのようにです。
ミルドレッドはこの看板を設置したことで、警察はもちろん多くの町の人間から反感をかってしまいます。
しかしミルドレッドはそんな批判には耳をかざす、断固として看板を撤去する事はありません。
ここから怒りや憎しみの連鎖が始まっていくのです。

怒りや憎しみのような負の感情から喚起されるのは同情や共感ではなく、それに反発・対抗する同じ負の感情なんですよね。
ミルドレッドに味方する人たちもいますが、それは彼女の行為に対する賛同というよりは、彼女に反対している人達に対する反発のような感情なのです。
負の感情はこうして、敵だけではなく味方にまでも負の感情の喚起という形で伝播してしまいます。

その先にあるのは、怒りと憎しみの連鎖と拡散であり、大元の原因を置き去りにした抜け殻となった感情のみのぶつかり合いという、ある種の滑稽ささえ伴った悲劇しかありません。

現代の社会や世界にもこのような連鎖が溢れているように思います。
人種や政治や宗教の考え方の違いなどから対立が生まれ、それは
ただの憎しみに変わり、インターネットなどで拡散されます。
相手が目に見えない事によりそれらは凶暴性を増し膨れ上がります。

本作では、そういった世界で起こっている事をアメリカの小さな田舎町に落とし込み、映画という疑似体験ツールによって僕たちに叩きつけてきます。

しかし、そこに救いはないのでしょうか?
「スリー・ビルボード」ではそれらに対してどういった回答を用意しているのか。
現代社会に生きる僕たちにとって避けられないこういった問題をこの映画を通して少し考えてみるのはいかがでしょうか?

 

⇩ここからネタバレ⇩

怒りと憎しみの連鎖

この映画のあらすじを知った時はこんなに重たい話だとは思いませんでした。
犯罪遺族のお母さんが設置した看板がきっかけで町が次第にまとまっていき、なんやかんやで犯人が逮捕され、そんな母親の強い愛と町の人たちの優しさを描いた様な感動作〜みたいな話しだと思っていました(笑)
しかしまず主人公・ミルドレッドの言動であれ?っと思いました。
そしてどうやらこの映画は僕が思っていたようなお話しではないと気が付きました。

まず、主人公であるミルドレッドが“良い人”ではないわけです。
頭にあるのは娘を殺された事に対する怒りと憎しみばかり。
周囲の人達に対する配慮などは全くなく、息子や教会の神父さんの言う事すら意に介さない、どころか神父さんに対しても酷い暴言を吐いて追い返してしまいます。
警察署長が末期の癌である事を知ってもそれがどうしたと言わんばかりに一蹴してしまいます。
無関係な元夫の恋人の事すら侮辱します。
最早ミルドレッドは怒りに支配された憎しみの塊になってしまっているのです。
そもそも、本来その怒りを向けるべき相手は娘を殺した犯人であるはずなのに、その矛先は犯人を逮捕出来ないでいる警察やその署長、さらには看板設置に反対しているだけの歯医者さんや元夫、神父さんにも向けられます。

そんなミルドレッドに対して特に強い反発と怒りを示したのが警察で働く粗暴な性格の警官・ディクソン。
そのディクソンはミルドレッドだけではなく看板を設置した業者の青年にまでその憎しみを向け、しまいには重症を負わせるほどの暴行を加えます。
ここでも、ディクソンが本来怒りを向けるべき相手はミルドレッドであるはずなのにそれは看板屋の青年にまで拡散されてしまうわけです。
ミルドレッドも、車に飲み物を投げつけられた時に、その犯人が誰かわからないにも関わらず近くにいた学生2人におもいっきり蹴りを入れます。
もはや、行き場のない感情をただただ発散する為に誰彼構わずその矛先を向けた、まるで炸裂弾のような状態です。

 

©2017 Twentieth Century Fox Film Corporation.

また、この映画において重要なのが、作中の登場人物たちの多くが心の中に“差別心”を持っていると言う事です。
ディクソンやその母親はわかりやすいほどの人種差別主義者ですし、主人公のミルドレッドも元夫の恋人を中傷したり障害者の男性に対して差別的な態度を取ります。
警察官たちも黒人を差別していますし、脇役に過ぎない看板屋で働く女性職員すら配達員を「見るからにメキシコ人っぽい」と無意識的な差別発言をしています。
このそれぞれが持つ差別心とそれに対する反感や怒りなどが人々の間に分断を作り、憎しみの連鎖の火種のようになっているのです。

 

3つのボードと3つの手紙

ミルドレッドの3つの看板から始まった憎しみの連鎖は収集がつかない程に拡散し歪に拡がっていきます。
しかし、この物語りは一人の人物の一つの行動により大きく変化していきます。
それが警察署長の自殺です。
この警察署長の自殺によって物語りの中の憎しみの総量はピークに達します。
それはディクソンの看板屋の青年に対する暴行、焼かれる看板、警察署に対する放火などにまで発展してしまいます。
しかし、ピークに達したこの状況を変えたのが署長が自殺の際に残した3枚の手紙でした。
この手紙の一つを受け取った署長の妻はミルドレッドに怒りを向ける事をしませんでした。
2つ目の手紙を受け取ったミルドレッドはそれによって署長の気持ちを知り、3つ目の手紙を受け取ったディクソンは署長の自分に対する理解と思いやりを知ります。
ここから、この物語りに渦巻いていた「怒り・憎しみの連鎖」が「赦し(ゆるし)の連鎖」へとその渦の流れる方向を逆向きに変えていくのです。
ディクソンが大火傷を負って入院した時、ディクソンから暴行を受けた看板屋の青年は彼を恨みながらもジュースを注いであげるという思いやりを見せ、それに対してディクソンは涙を流します。
仕事をクビになった事でディクソンはただの一人の人間になり、ようやく素の人間として周りの人達を見る事が出来るようになったのかもしれません。
そしてディクソンはミルドレッドの娘の事件の手掛かりの為に自分の身を危険に晒します。
すると、ミルドレッドはディクソンを許し、ディクソンは自分に大火傷を負わせたミルドレッドを許します。

3つの看板から始まった憎しみの連鎖は、こうして赦しの連鎖へと変わっていったのです。
タイトルの「スリー・ビルボード」はミルドレッドの建てた3つの看板の事だけでなく、この3枚の手紙の事も指していたのだと思います。
そこの手紙を書いた署長の名前は「ビル」です。

 

罰ではなく赦し(ゆるし)

この物語りは全体を通してどこかスッキリしない印象があります。
それはこの物語りにおいて主人公に「罰」が下らない部分にあるのではないでしょうか?
主人公であるミルドレッドは、周りの人間を傷つけ、歯医者の指にドリルを突き刺し、ディクソンに大火傷を負わせますがそれについての罰や報いを受ける事はありません。
多くの映画のストーリーは登場人物達のした事に対して相応の罰や報いを与え、最終的にプラスマイナスゼロにする事により映画を観ている人の心をスッキリさせます。
しかしこの映画ではそのプラスマイナスゼロが働いていません。
ですがそれは、この物語りの最も訴えたいメッセージを強調するためにあえて主人公に罰を下さないという作りにしたのではないかと思います。
この映画が示したかったのは、勧善懲悪的な「罪と罰」ではなく、「罪と赦し(ゆるし)」こそが本当の意味で人間にとって必要なものなのではないかと問うているのです。

©2017 Twentieth Century Fox Film Corporation.

この映画では他の人たちとは違う異質な存在が一人います。
それは、ミルドレッドの元夫の19歳の恋人です。
この子は一見おバカな女の子に見えますが、この物語りの中で全く負の感情を見せない存在なのです。
ミルドレッド一家の喧嘩の場に居合わせますが、彼女のそのどこかおバカな雰囲気によって場の緊張が緩み喧嘩が収まります。
体の小さな男・ジェームズとミルドレッドの食事の場でも、ワインの瓶を握りしめ元夫に殴りかかりそうなミルドレッドの怒りも彼女はその存在でもって落ち着かせます。
そんな彼女から出てきた言葉がまさにこの映画のテーマの一つを端的に表しています。
「怒りは新たな怒りを生じる」
そしてミルドレッドは彼女を大事にするようにと元夫に言いワインの瓶を静かにテーブルに置きます。
もしかすると本当の意味で怒りを沈められるのは、罰ではなく赦しなのかもしれません。

 

あなたならどうしますか?

この映画のラスト。
ディクソンが身を危険に晒しながらも手に入れた犯人と思しき男のDNAでしたが、結局その男はミルドレッドの娘を殺した犯人ではありませんでした。
しかし、別の場所で犯罪を犯していた事は恐らく間違いない。
その男を殺しに向かうためにミルドレッドとディクソンは車を走らせます。
しかし、二人はまだ本当にその男を殺す決心はしていませんでした。
そしてその男を殺すかどうかは「道すがら決めよう」と言ってこの映画は幕を閉じます。
この二人が男を殺す事はつまり「罰」です。
しかもそれは自分たちとは関係のない相手に対するものであり、これまでこの町で繰り広げられてきた怒りの拡散と同質のものです。
それは、現実の世界でも起こっている事と重なります。
インターネット等で良く見かける、不祥事を起こした人間に対する無関係の人間による独善的な正義による私刑と同じです。
そしてその私刑の根底にあるのは正義などではなく「怒り」なのではないでしょうか?
この映画では明確なラストは描かれていませんが、作品を観たあなはたこの二人がこの後どうしたと思いますか?
そして、もしあなたがミルドレッドの立場だったならどうしますか?

©2017 Twentieth Century Fox Film Corporation.

 

まとめ

僕たち人間は多くの感情を持っています。
とりわけ、怒りや憎しみといった負の感情は抗い難い強い力で僕たちを支配し、その解消として攻撃という手段を誘います。
しかし、理性を持った僕たち人間はそれを抑える力も持っています。
怒りを理性で抑えるというのは簡単な事ではないし、許されるべきではない悪というものも存在するかもしれません。
ただ、怒りを覚えた時に一歩立ち止まり一度理性を働かせて考える事は出来るのではないでしょうか?
その結果、後の行動が赦しとなるのか攻撃になるのかはわかりませんが、理性を働かせ一度冷静になるよう心がける事で僕たちの中の何かが変わっていくのかもしれませんし、ひいてはそれが社会全体を少しだけ良い方向に変えていく事に繋がるのかもしれません。

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