【クラッシュ】差別の悲劇、そして喜劇
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タイトル:クラッシュ
ジャンル:ドラマ / 社会
日本公開:2006年
製作国 :アメリカ
監督  :ポール・ハギス
出演  :サンドラ・ブロック / ドン・チードル / マット・ディロン

 

あらすじ
舞台はロサンゼルス。
そこには様々な人種の人々が共存し、同時に様々な差別が存在する。
警察官、検事、アウトロー、鍵の修理屋、雑貨店の店主など多くの人々が織りなす差別を中心とした群像劇。
というお話し。
メタ壱スコア 3.8

今作は2004年にアメリカで制作された人種差別を題材とした群像ドラマです。
沢山のキャラクターが登場しそれらの人物の物語りが差別というテーマで絡み合う事で社会全体としての差別と言う物を描き出しています。
この作品の特筆すべきポイントは、登場人物たちが差別をする側と差別をされる側に二分されていないところです。
こういった問題を扱った作品では多くの場合それらが二分されていて、“差別は良くない”という勧善懲悪的なものになりがちです。
しかし本作ではそういった描き方はされておらず、この物語りに登場するほとんどのキャラクターが差別をする側でもあり同時にされる側でもあるのです。
また、沢山のキャラクターの登場する群像劇として描かれる事によって映画を観ている側は特定のキャラクターに感情移入しづらく、それによって彼らの物語りに対して客観性を維持する事が出来ます。
一つの街に生きている彼らを、箱庭の中を観察するような感覚で観る事が出来るのです。
それが他の差別を扱った作品とは少し違う感覚を観る者に与えます。
人の振り見て我が振り直せ、じゃないけれど、「差別は良くない!」と思っている自分も実は無意識的に心の奥に差別意識を持っているのではないか?と考えさせられてしまいます。
僕は本当に特定の趣味の人達に差別意識を持っていないのだろうか?
僕は本当に外国人に差別意識を持っていないのだろうか?
僕は本当に障碍を持った人々に差別意識を持っていないのだろうか?
と。

アメリカでは多くの人種の人々が共存する事によって差別的な衝突が頻繁に起こっているといいます。
じゃあ日本にはあまり関係がないのか?と言うとそんな事はないと最近特に感じます。
インターネット、特にSNSの普及によりこれまで個人の内側で留まっていた差別意識が顕在化するようになりました。
昨今日本には毎年多くの外国人の方々が観光や仕事でやってくるようになりましたし、これからもっと増えて行くでしょう。
僕の住んでいる地域は片田舎ですが、以前より外国の方々をよく見かけるようになりました。
これからもっと増えるでしょう。
そうなった時、僕は本当の意味で全く差別意識を持たずに彼らと接する事が出来るのでしょうか?
心のどこかに警戒心や不信感を抱かずにいられるでしょうか?
そんな事を考えさせられます。
僕はこの作品を観て一度自分の中にあるかもしれないそういった意識と向き合う事ができました。
それはこれからの時代を生きていく僕たちにとって必要な事なのかもしれません。

 

 

 

⇩ここからネタバレ⇩

とにかくあらゆる差別が描かれたこの作品。
そこにはそれらがもたらす悲劇が描かれています。
しかし、この映画を観ている内にこの作品は悲劇を描きつつもその一つ上のレイヤーで喜劇的な側面を描いているように感じました。
それは先述したように群像劇として描く事により観ている者に箱庭を観察しているような第三者的な感覚を与える事に起因しています。
マウンティングからくる差別、警戒心や不信感からくる差別、歴史的な問題からくる差別、ストレスのはけ口としての攻撃からくる差別。
登場人物個人個人にとってそれらは大きな事かもしれません。
しかしそんな彼らを俯瞰的に観ているとそれらがある種滑稽に見えてきてしまいます。
人種が違おうと同じ人間なのに、と思います。
そして、その差別意識には根拠なんてないんじゃないかと思うのです。
黒人だから・・・メキシコ人だから・・・アジア人だから・・・それがなんなのか、と。
何をこの人たちはそんなくだらない事に執着し、そんなどうでもいい感情に振り回されているのか。
それがもたらすのは悲劇しかないというのに。
この映画の冒頭は追突事故による言い争いの場面から始まります。
そしてラストも追突事故による言い争いが始まるところで終わります。
この映画の中で散々クラッシュ(衝突)の悲劇が描かれてきて、映画を観てきた僕たちはそこから色々な事を学んだのに。
性懲りもなく僕たち人間は繰り返すのです。
こういうラストシーンにしたのには監督がこの作品に対して人間の愚かさと滑稽さを皮肉る意図があったからではないかと思っています。

また、差別主義者の上司を嫌っていた若い警察官が終盤で黒人男性が人形を取り出すのを銃だと早合点し射殺してしまう場面がありました。
差別を嫌いながら、その心の奥には警戒心という差別意識があったからです。
悲しい結末ですが見方によってはある意味滑稽にも見えてしまうエピソードです。
この黒人男性は射殺される前に若手警察官の車に乗っているあるものを見て笑い出します。
警察官は何がおかしいのかと不信感をあらわにします。
そして黒人男性は「人間だよ、人間」と言って笑い続けます。
彼が見て笑っていたのは宗教関連の人形だったのですが、それはその黒人男性が持っていたのと同じ物だったのです。
きっと彼は「人種が違っても信じているものは同じなんだな」と言いたかったのだと思います。
しかし、その人形をポケットから取り出そうとして射殺されてしまいます。
この黒人男性が笑った事、そして言いたかった事こそがこの映画の最も重要なメッセージの一つだったのではないかと思っています。

 

まとめ

差別意識というものは厄介で、本能とまでは言わないまでも人間の心の中に自然と湧いてきてしまう感情なのだと思います。
それらを解決するのに必要なのはひとえにコミュニケーションなのではないでしょうか。
相手を属性ではなく一人の人間として認識する事。
映画の冒頭でも「街を歩いていると人と肩がぶつかる・・・しかしこの街の人間はみな車に乗っているからそれがない」という台詞があります。
インターネットの発達により今まででは繋がれなかった人と繋がれる時代になったものの、それは人々の直接的な繋がりを弱めてもしまいました。
そういったコミュニケーション不全は人々の分断を促進させ差別を助長してしまっているのかもしれません。
この映画のタイトルは差別による人間の同士のクラッシュ(衝突)という意味の他に、生身の人間同士の深いコミュニケーションという意味のクラッシュの必要性を指しているのかもしれません。

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