【教誨師】死にゆく者との対話と、その意味。
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タイトル:教誨師
ジャンル:ドラマ
日本公開:2018年
製作国 :日本
監督  :佐向大
出演  :大杉漣 / 玉置玲央 / 烏丸せつこ

 

あらすじ
受刑者らの要望により彼らと対話をする宗教家、それが教誨師。
2ヶ月前に教誨師となった佐伯はそれぞれ人間性の違う6人の死刑囚と面会する。
ほぼ一つの部屋の中での物語りが描かれていく会話劇。
というお話し。
メタ壱スコア 3.2

受刑者と対話をする宗教関係のボランティアの方々がいらっしゃるというのはなんとなく知ってはいましたが、そういった人達の事を「教誨師」と呼ぶというのは知りませんでしたし、教誨師と受刑者のそういったやりとりの事をあまり深くは考えた事がありませんでした。
今作は教誨師になって2ヶ月という新米教誨師・佐伯が、それぞれ人間性の違った6人の死刑囚と対話するという物語りです。
無口な中年男、鈴木。
気さくなヤクザのおじさん、吉田。
ホームレスのおじいさん、進藤
よく喋る関西人のおばちゃん、野口。
気の弱そうな男、小川。
大量殺人者の青年、高宮。
この6人の犯した犯罪の内容は具体的には語られませんが、会話の中から朧気に見えてきます。

そんな彼らに教誨師の佐伯は、まるで彼らが犯罪者でもなんでもない普通の人であるかのように優しく語りかけます。
時には導くように、時には諭すように、時には友達のように、彼らに対し罪を犯した罪人としてではなく一人の人間として向き合います。

正直僕にはそんな佐伯が何を思って彼らに臨み、彼らと対話する事に何を求めているのか、もしくは求めていないのかは解りません。

しかし、そんな彼らとの会話を聞いているとふと不思議な感覚になりました。
この罪人達は遠からず死ぬのです。
死刑が確定している死刑囚は、服役囚などとは違い刑務作業などもありませんし、限られたごく一部の人としか面会も出来ません。
服装も自由です。
つまり彼らにとって拘置所にいるという事は、罰を受けているのではなくただ死ぬ順番を待っているだけなのです。
死の待合室というわけです。
まだ生きてはいるけれど二度と社会に出ることはない。
閉鎖され世間から切り離されたこの世界はまるで現世と死の境界線上にある、ある種の異空間の様にも思えます。
この作品はほとんどのシーンが通常のワイドな画面比率ではなく、スタンダード、つまり4:3で撮影されているのですが、その画面の狭さが教誨室の閉塞感をよく表していました。

そんな中で佐伯は、罪に対してそれぞれの向き合い方をする死刑囚達と対話を重ねてゆきます。
その事にどんな意味があるのか。
死ぬ事が決まっている彼らが罪と向き合い、後悔し、心を改めるという事に果たして意味はあるのか。

またこの映画には死刑制度の是非や罪とは何か、生きるとは何かとか、贖罪とは何なのかといった具体的なメッセージや問題提起などはほとんどありません。
ただひたすら彼らとの対話が続きます。
観客はただ、そんな佐伯と死刑囚たちの淡々とした会話を見て聞いて何かを各々がそれぞれ感じるしかありません。
そんなちょっと不思議な映画です。
僕には、死刑囚に対して罪人としてではなくまるで普通の人に接するように彼らと対話をする佐伯を見て、自分くらいは世界から切り離され死んでいく彼らを一人の人間として見送ろうとしているようにも感じられました。

 

まとめ

ただ淡々と会話だけが繰り広げられるちょっと不思議な本作。
繰り返して観る度に深みが増していくような作品だと思います。
またこの作品は、主演の大杉漣さん最後の主演作であり、初めてのプロデュース作品でもあります。
若くして亡くなってしまった名優の大杉漣さんですが、もしかすると大杉さんが最後に残したかったもの、描きたかったもの、表現したかったものが詰め込まれているのかもしれません。

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